魔羅太郎と黒光りZの旅#31

こんにちは!魔羅太郎です!

素戔嗚尊(スサノオ)とその息子、饒速日(ニギハヤヒ)は多くの職能民を従えて、飛鳥に入ります。

このときの時代背景を説明しておかないといけません。全然本題に入れませんけど‪w。

縄文時代後期、日本はまだ単一国家ではなく、各地に有力豪族が点在するような時代でした。

弥生文化に繋がる『倭人』文化・人の流入。別の説もあります。

 

海に囲まれ、東の果てにあり、比較的平和だった列島には、様々な民族の流入がありました。

これは、各地から出土する土器のデザインや、埋葬文化の違いから分かることです。

縄文・弥生時代の衣装・風俗。イメージです。

 

その中でも、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」という中国の史書に出てくる事で、
とくに有名なのが「邪馬台国(やまたいこく)」です。

「魏志倭人伝」にでてくる「邪馬台国」や「倭人(わじん)」は学校でも習いますが、その本質は教えてもらえません‪w。

縄文時代と同時代に大陸の揚子江(ようすこう)中下流域に長江文明(ちょうこうぶんめい)が存在していました。
長江文明は江南文明(こうなんぶんめい)ともいわれています。

江南文明を築いた「江南人(こうなんじん)」は、中国春秋時代の呉、越、楚の人々で、民族的にも文化的にも漢民族とは異なる人々で、
「倭人(わじん)」と呼ばれていました。

あれ?倭人てヤマトの人じゃないの?って思いますよね?

その前に、江南人=倭人と漢民族の違いを簡単にいうと、漢民族は黄河流域で麦の畑作と牧畜で漢字をつかっていましたが
、江南人は水田稲作、養蚕、漁労、交易を行ない、日常的には漢字を使いませんでした。

東シナ海を中心とした、古代アジア交易航路。日本海側、瀬戸内海から機内、太平洋側の航路が見て取れます。太平洋航路はかなりの難関ラインだったはずです。瀬戸内海や、日本海の対馬海流を利用するほうが安全性が高く、尾張地域には日本海側から琵琶湖を経由して流通していました。

 

江南人の海洋民は、3,000年前にはインドネシアから、マレーシア、北九州、吉備まで交易に訪れていました。
もちろん縄文人とも交流がありました。

はるか古代では、海洋路、内陸では水運が盛んで、現代のわれわれが思うより広い範囲で海洋貿易が行われていたんです。

内陸に整備された陸路がないので、水運が効率的なのは当然で、古代人が星の運行に興味を注いだのも海運があったからです。

それは各地に遠い産地の物品が混在して発見されることからも証明されています。

インドネシアの水稲農耕。『倭人』文化圏の原風景と言えますね。

 

前に話した古代大陸王朝「殷(いん)」でも、沖縄の子安貝を使っていました。貨幣ですから、簡単に手に入るものでは意味がありませんから、
貴重なものであったはずです。元は貴重な交易品だったんでしょう。

もどりましょう。つまり、江南人=倭人とは、東シナ海を中心にした海洋ルートを利用した民族ということになります。

インドネシアから台湾、沖縄、朝鮮半島南部、それと北九州。これらの地域で活躍した人たちが倭人なんです。

ですから、倭人と縄文人は生活圏を一部重ねた別文明人というかんじでしょうか。

全然、日本神話出てこないですけど、ここからです‪w

つづきます!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください