魔羅太郎と黒光りZの旅 #72

明けましておめでとうございます!魔羅太郎です!

今年もよろしくお願いします!

『古事記』は712年、『日本書紀』は720年というように、いずれも8世紀のはじめにまとめられた歴史書です。
戦前、戦後の国学者はこの両書を絶対的正史として、扱ってきました。
分かりやすいところで言いますと、「神武天皇の東征」です。

神武天皇、実在したかは不明です。

 

もちろん、神武天皇自体が神話的存在で、同じ「神」のつく「応神天皇」や「崇神天皇」と同一人物とする考えを「現実的」なものとする学説もあります。
実在したのは「神武天皇」と「崇神天皇」で、そのあいだの天皇は歴史を長く見せるために創作したものであると言うものです。
これは「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれる学説です。

崇神天皇

応神天皇

 

8人の天皇の業績がほとんど記載されていいないこと、年齢が「平均120歳超」で信憑性がないなどがその理由です。
この説は主流の学閥にも認められている説といえます。

また「応神天皇」と「神武天皇」の奈良に入るまでの動きが似ていることから、この3人が同一人物ではないかという説も存在します。
3人の「諡号(しごう)」に「神」の自我つくことも大きな理由です。

いわゆる、漢風諡号はやはり8世紀から使われるようになったと考えられています。大和言葉(やまとことば)による諡号では
「神武天皇」は「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) – 『日本書紀』」、
「崇神天皇」が「所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) – 『古事記』」と同じ名前になっています。

神武天皇は紀元前600年代、崇神天皇は紀元前90年代に在位と言われています。応神天皇が紀元後200年代なので、神武天皇とは800年の開きがあります。

神武東征以降、南九州・高千穂を拠点とする一族が、大和(奈良)に移住し広がったとすれば、 この分布図で九州もオレンジにならなければならない。

 

最近、「ゲノム解析」から縄文人と弥生人の遺伝子の違いがわかってきました。
神武天皇が正史である古事記、日本書紀ち書かれているように「神武東征」をしたならば、もっというと、神武天皇が南九州出身の「縄文人」ならば、
また「渡来人」で本当に「高千穂」から「東征」するほど、南九州に拠点を築いていたなら、図のような分布になるでしょうか?

 

つづきますっ!

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