お引越し

春の風が、街の角をすり抜けていく。
その風に背中を押されるように、佐伯真理は段ボールをもう一つ積み上げた。

「これで、最後かな…」

長年住み慣れたこのアパートとも、今日でお別れだ。
築三十年の古い建物。冬はすきま風が冷たくて、夏はエアコンが効かない。
だけど、狭いキッチンで焼いた初めての目玉焼き。隣の部屋から聞こえてきた子どものピアノ練習。
全部が、真理の「今まで」を支えていた。

新しい住まいは、会社の近くで少しだけ家賃が高い。
でも防音はしっかりしているし、何よりコンビニが徒歩一分だ。
合理的で、便利で、ちゃんとした「大人の選択」だった。

――なのに。

荷物の詰まった段ボールを見つめていると、不意に胸が詰まる。
こんなに小さな箱に、自分の生活が収まってしまうことが、なぜか少し寂しかった。

チャイムが鳴る。
引越し業者のスタッフが、明るい声で挨拶をしてくる。
真理は微笑み返し、鍵を閉めるために最後の確認をした。

リビング、良し。
キッチン、良し。
洗面所、良し――と思ったとき。

玄関の隅に、小さな封筒が落ちていた。
見覚えがある。数年前、母が遊びに来たときに置いていった手紙だった。
「無理しないで」「元気でいなさい」そんなことが、丁寧な字で書かれていた。

読み返すと、喉の奥がじんわり熱くなる。
引っ越しというのは、過去をしまう儀式なのかもしれない。
だけど、それは「捨てる」ことではない。
ただ、新しい場所に持っていくための準備なんだ。

真理は封筒をそっとバッグに入れた。
少しだけ軽くなった心で、玄関をあとにする。

「じゃあね、ありがとう」

扉が閉まり、鍵が回る音が、過去との静かな別れを告げた。

風はまだ、街を吹き抜けていた。
新しい春が、すぐそこまで来ている。

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