こんにちは!魔羅太郎です!
「記紀」で語られる「誓約(うけい)」。正統竹内文書では、どのように記されているのでしょうか。
縄文時代に日本列島を出た「出雲族」と「日向族」は、メソポタミアに国を造り、共存していました。アマテラスは「祭祀王」、スサノオほ「統治王」として、共栄していたんです。
しかし、日本列島と比べて環境の厳しい中東では、縄文のアニミズム文明を十分に体現することは難しく、2氏族は約束通り、日本列島に帰ることにしました。
古代のユーラシア大陸は戦乱が耐えませんでしたから。
以前のブログでお話したのですが、縄文時代は1万6000年前には文明と呼んで差し支えないものでした。これは現在では学会では常識です。
さらに、2万8000年以上に遡るという説を唱える学者もいるくらいです。
近年、研究が進み判明してきたのは、北海道や東北の縄文遺跡の痕跡から、4000年から8000年、1箇所に定住していたという事実です。
この事実が意味することがお分かりでしょうか?
狩猟採集を中心とした生活で、数千年定住するということは、資源を持続的に利用していたということ、そのように豊かな土地を奪い合う争いが無かったということなんです。
実際に縄文遺跡では、戦争の痕跡、争いで亡くなった人骨の痕跡はほとんど発見されておらず、武器らしきものも見つかっていません。
西暦2022年を迎える人類の歴史上、どれほどの戦乱があったかを考えれば、おどろくべきことです。
話が逸れましたが、平和な縄文列島からやってきた、「スサノオ族」「アマテラス族」の記憶の中に、戦乱と無縁の縄文の暮らしが生き続けていたのかも知れません。
「スサノオ」「アマテラス」はそれぞれ「統治王」「祭祀王」の役職名でしたから、時間的な経過に矛盾が生じるものではありません。
日本列島から散っていった16氏族が再び故郷に集うという約束。平和の理想郷としての縄文文明への郷愁から、2氏族は日本に帰ることにしたのです。
シュメール文明、シュメール人が忽然と消えたことにも繋がる出来事かもしれません。
シュメール文明においても、「統治王」と「祭祀王」という2人の王が1国を治めていました。日本と同じです。
ちなみに、前に「スサノオ」はメソポタミア・シュメールの一王国=エラムの大都市「スサ」の「王」を表した名だとお話した回がありましたよね。
あのときのお話は、ここに繋がってきます。
ちなみに「エラム」の意味は「東」です。東からやってきたことを王国の名にしたのでしょうか。
陸路から戻ったのが「出雲族」で、海路を選んだのが「日向族」だとも言われています。
中東では共栄した2氏族でしたが、日本列島に戻ってからは争う関係となってしまいます。
ユーラシア大陸で争いが絶えなかったのは、生活資源が乏しいからです。縄文人が数千年も争いと無縁だったのは、徹底したシェアリングシステム社会だったからです。
「所有」という概念がなかったから、奪い合うこともなく、争う必要もないほど生活資源が豊かだったのでしょう。まるで「エデンの園」のようです。
「スサノオ」も、「アマテラス」も大陸で生き残るために、縄文人の価値観を忘れてしまったのかもしれないですね。
そもそも、「祭祀王」の発言権が上で、「祭祀王」の神託をもとに「政治」を行うカタチであったものが、その上下関係を争うようになってしまいました。
「記紀」にある、「スサノオ」の狼藉とは、こういった役割、「祭祀王」の神託を「武力」で押さえ込もうとしたことを意味しているのかもしれません。
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