こんにちは!魔羅太郎です!
先日、自分のクルマの前をアストン・マーティンV12・ヴァンテージが走ってまして、
その後ろ姿を見ながら、GTカーについて考えていました。
もはや、元祖の意味付けとしての『GTカー(grand・tourisumo)』としての
要件は、現代の大衆車でも十分に満たしていますので、現代における
新しいGTカーの定義ってなんだろうかと…
もともとのGTカーとは、前の回にも少し説明しましたが、要約するとヨーロッパの諸国国境を超える
クルマによる旅行・移動のためのクルマというようなものでした。
当時のクルマはエンジンをかけるのも手動でクランキング、屋根がないクルマも多かったですし、サスペンションは板ばねでした。
ヘッドライトはオイルに火をともすカンデラでしたし、ホイールも…など大陸を横断すること自体がドライバー自らが
メカニックを兼ねる、長距離ラリーのようなものでした。
裕福な家の子息が、社会に出る前の卒業旅行、いわば見分を広める、苦労を味わっておく
というような意味で『コンチネンタル・グランツーリスモ(陸長距離旅行)』にクルマを使うようになると、
クルマの快適性、安全性は一気に高まっていきます。
エンジンはセルモーターで指導するようになり、固定式の屋根で十分な対候性、騒音の遮断性、
ヘッドライトは電気式になり、フォグライトまでつきます。サスペンションもコイル式ばねへ進化し、
堅牢性、乗り心地の向上、ハンドリングは正確に、エンジンもアルプスを越えるために強力なもの、
排気量が上がっていきます。
これらの性能は、もはや現代のリッターカーであれば、十分に備えた性能ですし、
軽自動車でも馬鹿にできません。
現代のGTカーにしても、これらの性能を突き詰めた形になります。スーパーカーとの違いは、
長時間ドライビングするための快適性と、大きな荷物を積載できるトランクをそなえているところです。
こうしてみると、GTカーの性能はより快適に速く、ということになりますね。
しかし、公道での性能は、もはや飽和状態。エンジンカーのGTカーとはノスタルジーになりつつ
あるのかも知れません。
V8のトルクが、エレクトリックカーでは簡単に出てしまうように、V12のデッドスムースな高回転も
モーターなら簡単に実現してしまうでしょう、むしろその回転数まで回す意味が無くなってしまうでしょう。
それ引き換えに、大きなコンロッドを一万回転以上ぶん回す機械的精度、技術的的進化、
組み立て精度など、人の手で作る価値のようなものが薄れて行ってしまうかもしれませんね。
これがノスタルジーなのだと思います。
馬の時代から、クルマに変わるときも当時の人間は同じようなノスタルジーに駆られたことでしょう。
それが乗馬となり、競馬となって残っている。内燃機関のスーパーカーもそのように残っていくかもしれませんね。
もうひとつ、馬の話にも通じますが、GTカーの佇まいです。
形の良さ、これは何がいいとか、カッコいいとかは人それぞれなので表面的なテクスチャーデザインではなく、
GTカーが移動そのものに特化した、究極の実用車だとすれば、その美しさは機能美であるはずです。
馬の体には一切の無駄がありません、長い距離を走り切って、その日の宿にたどり着いたとき、
馬に一日の労をねぎらうそのときに、馬の持ち主は長距離を無時走り切った自分の馬を誇らしく思ったことでしょう。
GTカーは旅する車です、名古屋から九州まで走り、一日を良いペースで走り切った愛車を眺める瞬間に
GTカーの本質があるように思います。ですから、いいGTカーには、いい佇まいがあると思います。
魔羅太郎が見た、アストンマーチンにも佇まいがありました。それを駆るドライバーの運転も優雅でありながらメリハリがあり、
周囲のクルマに恐怖感を与ない、ブリティッシュスポーツの名に恥じないものでした。
このように『佇まい』にはいろいろな要素があると思います。
そこにデザインの要素があるとして、旅に似合うデザイン、日本のGTなら日本の景色の中で『佇まい』を見せる
デザインであってほしい。そこにドライブトレーン、ドライブシステム、などがキャラクターとなり、ドライバーの資質と一体になって
『佇まい』となって現われるのだと思います。
今回、日本のGTに『GTR』を選びました。
折り紙のような複雑なデティールをバランスよく繋いだデザインになっています。
ヘッドライトは点灯したときにだけライトユニットが現れる光透過型樹脂のフェンダーに隠れています。
いかがでしょうか、魔羅太郎は気に入っています。 時間があればリア回りもお見せしたいと思います。
コメントを残す