こんにちは!魔羅太郎です!
この江南文明で、呉(ご)と越(えつ)が楚(そ)に敗れ、楚も紀元前223年に秦(しん)に敗北。
春秋戦国時代に終わりを告げます。
楚は製銅、製鉄、漆器、紡績に長けた国でした。これらの敗戦国の難民、江南人が各地に逃れ、
海洋民は馴染みのある日本列島にたどり着きます。
この時、山東半島から遼東半島に流れ着いた江南人が「百済(くだら)」をつくります。百済以南の伽羅国(からこく、
伽耶国かやこく)も対馬を挟んで北九州と同じ文化圏で、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に出てくる倭人とは、このエリアを文化圏とする人達だったんです。
倭人文化圏
特に、楚の王族は「熊(ゆう)」氏で、この一族がたどり着いた先に「熊(くま)」や「隈(くま)」の地名は楚人(そじん)由来という説もあります。
これらの江南人(倭人)が、九州北部に築いた文明が弥生文明なのです。
ですから、本州の縄文文明と弥生文明は併存していたことになります。
江南文明の技術を受け継いだ弥生文明は、高度な「水稲農耕」や伽羅国、百済との交易で発展し、後に「邪馬台国」を名乗ります。
このときに、百済との交易でもっとも重要なものが、「製鉄」であり、鉄鉱石だったんです。
「製鉄」と「水稲農耕」はワンセットで重要でしたよね!
そして、この「江南人」の流入と「倭人」のネットワーク、既存の「縄文分明」がひとつになり、列島では先進の小国家が誕生しました。
これが、「邪馬台国」なんです。
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