魔羅太郎と黒光りZの旅#35

こんにちは!魔羅太郎です!

「製鉄」に伴う「黒煙」=「雲」をモクモクと出す「出雲族」。

有用な「鉄器」を量産し、先進の土木技術で灌漑を整備し、水稲農耕を進化させ、
畿内の縄文人に大きな恩恵をもたらします。

先に話しましたが、このとき九州や朝鮮半島南部を含む、東シナ海エリアは「倭人」が同様に
「鉄器」や「水稲農耕」を進化させた「弥生文明」を形成。

邪馬台国と卑弥呼のイメージ。本来、『邪馬台国』は『ヤマト国』、『卑弥呼』は『日巫女』のはすです。

 

その中心のひとつは「邪馬台国」だったはずです。これを頭に入れながら進めます。

大陸からの文物は「倭人」のネットワークで「北九州」に渡り、関門海峡を通って瀬戸内海を経て「畿内」に入るルート。

もうひとつは、日本海の対馬海流を使って東北までを網羅する日本海ルート。
こちらは琵琶湖の水運を利用して「畿内」に入ります。

縄文時代には海面上昇があり、大垣のあたりまで海だったんです。そもそも、『愛知』とは『あゆち』の転訛で、古語で『あゆ』とは魚を意味していました。つまり、魚の獲れる場所という意味でしょう。

水運の意味からすると、琵琶湖と尾張の海がいかに近かったか分かります。図を見ると『熱田』、『一宮』、『四日市』と神社に関係のある地名が、古代の海岸線に沿ってあるのが分かります。もともと、『市』は神社にに立つものでした。

縄文時代の水位は今よりも高く、最大で120メートル高かったと見られています。

水位が高かった時代の日本地図。少し見にくい図ですが、琵琶湖を中心にした水運に利があった事が分かります。

 

その時期には、琵琶湖の直前まで瀬戸内海が伸びており、関ヶ原を越えると、大垣の辺りまで海だったんです。

こうして見ると、古代人が要所として押さえたポイントが、当時の海運、物の流れを想像させてくれるのではないですか。

つづきますっ!

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