こんにちは!魔羅太郎です!
「古事記、日本書紀」の編纂が完了したときには、天武天皇は亡くなっていて、時の天皇は、その嫁である「持統天皇(じとうてんのう)」=女性天皇でした。
この腹心が、「藤原不比等(ふひと)」で、「古事記、日本書紀」編纂の責任者です。
この「持統天皇」は「伊勢神宮」に何度か参拝に通ったということですが、その後の代々天皇は、記録に残っているだけでも、「大正時代」まで参拝していません。
つまり、大正天皇まで皇室の伊勢参拝はほぼなかったことになります。
天皇家の祖神としては、ずいぶんとご無沙汰ななことですよね。
小学生の教科書にも「古事記、日本書紀」しか、正しくないという扱いです。
もちろん、この扱いは「その道」の専門の研究者が監修しているところです。
天皇の皇祖神であるはずの「伊勢神宮」を天皇家はつい最近まで無視。
まあ、昔はクルマもないし、京都から離れてますから簡単に行けないですよね。でも、「熊野古道」で有名な「熊野大社」には多くの天皇が何度も通ってます。
あそこ、歩いていかないとだめですから、カゴとか、牛車とか使えないですからね。それなのに自ら歩いて何度も行く。行くこと自体が修行とされるほど険しい道です。
だから、距離や労力は「伊勢神宮」参拝にいかない理由ではないでしょう。
新栄町に「葵(あおい)」という地名があります。「葵の交差点」と言えば、2番出口のあそこです。
この「葵」は「葵祭」からきていると言われています。
葵祭(あおいまつり)は天皇自らの「娘」を「斎王(さいおう)、斎宮(さいぐう)」として、「伊勢神宮」に送る行事です。
最近までやってました。「斎(さい)」は「神様を祀る」という字です。
やっぱり、自ら行けなくても丁寧に祀ってるじゃないか、と思われるかもしれませんが、
「斎王」は天皇の実子の年頃の女の子を「伊勢神宮」の「天照大神」に「巫女」として嫁がせること。
「斎王」となった天皇の娘は、父天皇が代替わりするまで「伊勢の神」に仕えました。
神に仕えるとは、聞こえはいいですが、「斎宮」の役目は「伊勢の神」をなだめること。神威をなだめ、祀ることでした。
誤解を恐れず言うなら、神様にそなえる「生贄」ともいえます。
なんで、天皇家の祖神なのに、ここまでして「なだめる」んだろう。
「伊勢の神」が、天皇家の祖神であるならば、丁寧に祀ることは理解出来ても、祟を恐れ祀り上げることには違和感を感じます。
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