こんにちは!魔羅太郎です!
1960年代、速い車を作るにはどうすればよいか、、?
軽量な車体に、大トルクのエンジンを搭載すればいい!
という単純な理由で、制作されたわけではないでしょうが、
『1960年代初頭、キャロル・シェルビー氏はエンジンの供給に困っていた
英国ACカーズに対し、米国フォードのエンジンを供給するかわりに、ACカーズから
ボディとフレームを供給させ、そのクルマを全米のフォード店舗でも販売するともちかけた。
こうして完成した英米合作のスーパースポーツカーがオリジナルのコブラで、
1963年から70年頃にかけて生産された。』
・・ということです。
今回は、ACエースをもとに製作された、日米合作のモンスター、
ACコブラです。
ACはスポーツカーですから、エンジンの供給元に困っていたのというのは、
正確には、『マルチシリンダー大排気量で、信頼性のあるエンジンの』供給元を
探していたということでしょう。
ただの直四では凡庸なスポーツカーにしかならない、
ビッグブロックのV8を積めば、とんでもないモンスターになる。
1100㎏ほどの車重に積まれているエンジンは、427Cubic Inches、V8ブロックで
約7000cc。60年代に400馬力オーバー、トルクが太すぎて、ドライブシャフトがねじ切れるとか、
シフトアップ中、3速までホイールスピンが止まらないなど、それらしい逸話があります。
いかにもアメリカらしい、豪快なスポーツカーというイメージが強いコブラですが、
シェルビーコブラの生みの親である、キャロル・シェルビーの人生もまた豪快でした。
もともと、アマチュア時代からレースに参戦していたシェルビーは、このころから
ヨーロッパ製スポーツカーのシャシーに、アメリカンV8を積んでレースに参加、その
可能性を感じていたようです。
プロレーサーになったシェルビーは1959年、ル・マン24時間で、アストンマーチンの
ワークスドライバーとして参戦、初出場でフェラーリを破り、総合優勝しました。
引退後、世界一速いスポーツカーを作る理念の元、『シェルビー・アメリカン』を設立。
そこで、冒頭のACカーズの計画と、シェルビーの思惑が重なって、コブラが誕生したわけです。
V8エンジン供給元はフォードで、国内でのライバルの一角であり、アメリカ最速を謳った、
シボレーコルベットに勝てる車が無く、国内レースでは負け続けていました。
ACエースのシャシー性能が高いことに確信を持っていた、シェルビーは、当時のフォード社長、
リー・アイアコッカに、エンジンを供給してくれれば、コルベットを越えるスポーツカーを作れる、と進言。
V8エンジンの供給をとりつけました。
こうして開発・生産されたコブラはアメリカ国内レースで、コルベットに大差で勝利すると、
プライべートコンストラクターとして、ル・マン24時間に参戦、GTクラスでフェラーリを下し、
クラス優勝します。総合でも4位となり、フェラーリに勝った男はレース界で注目されるようになります。
いっぽう同年、フォードもヨーロッパに新工場を設立、ヨーロッパでのプロモーションのために、ル・マン24時間に
参戦。フェラーリ買収事件の一件でフェラーリにコケにされたこともあって、当時ル・マン常勝チームだった
フェラーリを打倒し、優勝、フォードの名をヨーロッパに知らしめようとしていました。
しかし、結果は11時間で参加車両全滅、完走も出来ませんでした。
プライベートコンストラクターである、シェルビーの活躍と、コブラのフォードエンジンの関係で、
フォードはシェルビーにフォードのオフィシャルチームを任せることになります。
この戦いは2~3年前にも映画になりました、詳しくはそちらをどうぞ。
コブラ自体は、オリジナルよりも、派生車種、レプリカ、カスタムなど、なにがオリジナルかよくわかりませんが、
シェルビーの名を冠した、シェルビー・マスタング・コブラなど、アメリカを代表するレーシングカスタマーのアイコン
となっています。
タイヤのバランスにコブラのアイコン!
ヨーロッパ車にはない、埃っぽい、豪快なスポーツカー、、、そんなシェルビーには、ヨーロッパ勢のスーパーカーとはまた、
一味違うニューモデルを企画してほしいですね。
つづきますっ!
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